求められている『普通』が遠い
社会みんなが持っている『普通の生活』の概念が自分には押し付けられている感じがして、苦しい。
みんな心を普通という型枠に押し込めて、くりぬこうとしてる。
むりやり綺麗な形になろうとしている。
たしかにきれいだけど、それは本当に自分の意思だと言えるのか?
大多数が共有している普通という理想像を自分にインストールしただけじゃないのか?
そのままでもいいと思うんだけどな……。
普通の型枠に押し込められて出来上がった心は、心からなりたかった自分なのか?
本当にそれが欲しいのか?
私にとってはくり抜かれて必要のない部分になった(ように見える)ところも大切な心の一部。
周りはそれを平然と捨てているようにみえるが、私は捨てたくない。
自分の心のままに生きるのが、こうも社会とすれ違うのはどうしてだろう。
自分にとっての普通が、社会の普通と噛み合わないのはどうしてだろう。
普通に生きるのが、自分には果てしなく遠く感じるのはどうしてだろう。
毎日毎日心にキズを負いながら生きている。
周りの人はアスファルトを走るかのように軽やかに今も生きているのだろうか。
私は砂利道で両方にバラが咲いているよ。
進めば進むほど血が出るし、苦しい。
毎日毎日キズを作りながら、それでも先に進む理由もうまく見つけられない。
どうして自分はこれほど繊細な人間に生まれてきてしまったのだろう。
今もこうして悩んでいる。黒い不安に押しつぶされそうになりながら。
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