最近のよざくらぐみに思うこと

生きづらさを感じる

書くことがおっくうになって、よざくらぐみから少しずつ離れている生活を送っています。

ありのままに書いていいはずなのに

自分の頭の中にある思考を言葉に直して、変換していくというのがおっくうだと感じているのでしょうか?
ただ、記事を書くというのが、"誰かのためになるような"記事を書かなければならないと知らぬうちに変わっているようにも思います。

「この記事を書こう!」と思っても、頭の中にいる自分がこう言うのです。
「その記事は誰かのためになるのか?書いて意味があるのか?」と。

自分でサーバ代を払って、自分でドメイン代を払っているのですから、本来好き勝手書いていいはずなのですが……。

色々なしがらみだったり、枷にとらわれてよざくらぐみの幅を自分で狭めてしまっているようです。
なんというか、しんどい。

もっと自由に。
もっと自分を。
ありのままに書いていいはずなのに。

自分で作っていた思考の枷

よざくらぐみに関わらず、私は思い込みが強い性格というか、「こうしなければならない」という枷をつくってしまうことが多いことに気付きました。

自分がしなければならないと思っていたことが、実はそうでもなかったり、自分自身で作ってしまっていた「こうしなければならない」という枷を疑うこともなく、そうだと思い込んでいたり。

自分の思考の枠組みというか、自分は今こういう思考をしているんだと気づくこと。
難しいですね。
常に自分の思考の『偏り』を認識することは意識していても、いつしか忘れてしまっていて、ふとしたときにまた気づくといったループを繰り返しています。

そういう枷に気づくたびに、自分の心がペリペリとめくれていくような感覚を感じます。
ですが、決して剥がれないであろう場所があることも分かります。

それは自分の心にある繊細さ

そして、漠然とした生きづらさ。

「人と一緒にいることが疲れる」と相談してみても

「そんなんじゃ世の中やっていけないよ」
「みんな同じでしょ」
「人と関わらないことなんて無理なんだから、しゃーない」

その通りです。
当たり前のこと。

ですが……。

みんな私と同じような生きづらさを感じて生きているのだろうか?
周りは当たり前のように乗り越えられていることがどうして自分にはとても高い壁のように感じるのだろう?
相手の表情や声、しぐさなど相手の一挙一動が自分に流れ込んでくる感覚とみんな、うまく付き合っていけているのだろうか?
みんなすでに乗り越えた部分を、自分はいまでも引っかかり続けているだけなのだろうか?

分かりません。
ですが、それでも、こうして生きています。

そして、「よざくらぐみ」にこうした自分の思考だったり、考え方の枷を書いておくことによって、誰かの思考の枷をほどくきっかけになるのかもしれないと思いました。

また、同じように生きづらさを感じている"みんな"に、苦難しながらそれでも生きているとありのままに情報を発信し続けることが、ものすごく弱くて小さいけれど、エールになるのではないでしょうか。

生きているだけでいい

自分の中にある繊細さ、細やかな部分。
そして生きづらさ。

それはもう治すこともできず、手放すこともできないように思います。
折り合いをつけてうまく付き合って、生きていくしかないと諦めること。
その時に、繊細さとともに生きる生き方として、よざくらぐみはひとつのモデルケースとして機能するのではないかということ。

よざくらぐみは書いている私以上に成長することはありません。
言い換えれば、私とともに成長していける媒体です。

二人三脚で生きてきた相棒であり、生きてきた記録であり、生きていた証になってくれる媒体です。

色々な軋轢、苦悩、生きづらさ、、、
すべて感じて、苦しみながら、それでも生きている。
生きているだけで「勝ち」だと誰もほめてはくれませんが、今日も今日とて生きているというのが、何よりの『勝ち』になるのではないでしょうか。

こうしている間にも誰かは負けて暗い底へと落ちていきます。
その中には望まぬ負けや、不慮の負け、後悔のある負けも含まれているでしょう。

今こうして生きているだけで『勝ち』なのです。
色々な感情や心の膿、軋轢を背負って、それでも生きているだけでもう『勝ち』なのです。

私は、そう思います。